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あー、アレね。
ここは議論の場なので、遠慮なくいかさせてもらいます。
人に相談する=積極的逃避
で、あることは賛成。内容として、「解決させる意思」
または「違う場所でがんばる意思」があればそれは積極的逃避といえる。
しかし、こういうところで「いじめっこはバカが大半だ」とか
「あたしはいじめられて生きる気力がなくなった」とか書くのは積極的逃避とはいえない。
また「消極的逃避=悪い 積極的逃避=良い」というのは余りにも安易で、
それでいて消極的逃避中の人間に悪影響を与える可能性もある。
「すべてのいじめられっこの。。」が聞いて呆れる。
ここでいうべき言葉は「積極的逃避だからいいんだ!」という言葉ではなく、
「後で何かしら行動しなきゃいけないにしろ、消極的逃避だろうが積極的だろうが、
人が苦しんだり、悩んだり考えたり怯えたりする時間も大切である」ことであると
見受けるがどう思われるだろうか。
「逃げよう」→「相談しよう」→「解決した」 でいいのか?
と、いうのも。悩むことや一人で考えたり、自分の力で手首を切るなどといったことは、
世間から見て悪いだけであって、それ自体が本人に悪影響を与えるわけではない。
むしろ悪に染まらなければ悪を理解できないと同様、社会から見て悪いことをしないで生きてきた人間と、少しぐらいヤクかじってました☆な人間とでは、
人間の器そもそもが違う。
一人で何日も夜中泣いた人間にしか、何日も夜中(ヨルヂュウ ねw)は体験できない。
ポジティヴな意見は結構ですが、現実はゲームじゃない。
話しかけても返事しないのが現実。
必ず一人はいたって、何にもしてくれないのも現実。
自分で戦うしかいけない人もいる。
みんな決まって「親とか先生に言うしかないよ」と言うことを貴方は知っているだろうか。
あたし含め、他諸々の無個性な人間は才能があるといえるだろうか。
ヒキコモリに才能があると勘違いするのはマスコミが特別視するからである。
100人のヒキコモリの内1人が業績を成す。
1万人の大卒者内100人が業績を成す。 確率は同じだ。
ひきこもろうが学校に行こうが、やる人はやる。やれない人はやれない。
「学校に行ったせいであたしは作曲に費やす時間がなく、だからあたしは作曲家になれなかった」は
大きな勘違いである。
授業はくだらなくなんかない。
あたしは風邪で1週間近く学校を休んだが、そのとき逃したものは大きいと思っている。
一方的に「学校はくだらないよ!」なんて言う人間はどうかしている。
と、いうか。学校=くだらない ということに何の疑問も抱かないのだろうか。
一番最初に言った人間は、よほどくだらないと思ったのだろう。
嫌い→くだらない いじめられた、なんもしてくれない→くだらない
では「くだらないと思った」とは言えないのではないだろうか。
・・・って、いうのはあたしの右側の考えで、左側は学校行きたくないんだけどね。
なんつ〜か、だるいのよねえ。何分置きにタブレット飲んでるのかっつう話。
まあ日頃から封建制度だとか言ってる家庭だからくだらないと感じないのかしらね。
個人差はあれども「授業はするな」というような内容は不適切である。
書いた人間がどう思うかは別として、
こういう人間もいるしこういった見方もできるということで書いておく。
・優しさについて。
優しさは誰しもそなえつけられているものである。
いじめをすれば優しさがない というのは安易。
「虐待死させる母親は子供を愛していない」と思っているクチだろうか?
そうだとしたら、その考えは改めるべきである。
いじめをしていても仲間から外れられるのが怖くて良心を咎められながらいじめをする。
いじめをしたくなくても、自分の中で抑圧できない部分が現れて攻撃的になってしまう。
いじめを止めたくても関係ないと言われたら返しようが無いのでなにもできないでいる。
後々になって首謀者がやめようとも言い出せない。
これは優しさにはいらないだろうか。そうだとしたらそれは偽善でないだろうか。
「したくなくてもしてしまう」苦痛をしらないからこんなことを言えるのだろうか。
貴方が貴方のためだけに言っているのであれば、ここは利用するべきではないと思います。
見ていて痛々しい。
・・・それはあたしに言うべき言葉でもあるかしらん?あはあん?
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